貨幣展示室 タイコイン

あくまで個人的な記録用です、ご了承のほど。

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§ 291.仕込杖 後編

11後右
12後左
14後切先右13後切先左
「銃砲刀剣類登録証」を持って紹介された研屋さんを訪ねた。
これまでの経緯を聞かれ、研ぎや鞘の代金の説明があり、最後に完了予定を尋ねたところ、
「たくさん抱えているので3ケ月先にはなんとか」。お願いしますと預けて来た。
日時を過ぎて電話したが「未だやっていないのでもう1ケ月」。
2度目の約束が過ぎたころ完了との連絡があり参上。
研屋のご主人曰く、「南北朝後期の備前。最初に見た時は江戸後期のその他大勢の代物と思った。研ぎ始めたらいいもんが出てきた。大事にして後世に残してくださいな」。


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2016/02/13/Sat   日本/CM:1/TB:0/

§ 290.仕込杖 前篇

01日本刀研前
今回は日本刀の話。
生家の物置でこれを見つけたのは自分が高校生の頃だったか。
表面は桜木の皮に覆われ、先端には金属製の石突があり、しっかりした杖のようだったが、手にした瞬間に日本刀だと思ったと記憶している。
戦後、近在のなんとか組に3振譲ったと父親から聞いていたこと、またこの物置で多少錆びた鍔(つば)を既に発見していたためと思われる。
ゆっくり引き抜くと、多少錆びてはいるが刃こぼれが全くない刀身が出てきた。
鞘の素材は桐。少しでも軽くするためだろうが大半が虫に食われていた。
杖の中に日本刀を隠したものを「仕込み刀」といい、その杖を「仕込杖」というとか。
護身用であろうがいったい何代前のじいさんが作らせたのか、既に尋ねる相手も居なくなっていた。
雑誌の上を這わせると一回で5枚程度に切れ込みが入ったことを覚えている。
刀身に薄く防錆油を塗って鞘に納め、新聞紙に包んで別な場所に移動しておいた。

数年前に砥ぎに出すことを決め、生家所轄の警察署へ発見届を出し受理された。
次に、居住する県の教育委員会に所持申請をした。
指定された日時に現物とその受理証(刀剣類発見届出済証)を持ち込み、審査を受けた。
その日のうちに銃砲刀剣類登録証を受け取った。
一般的に誤解されやすいが、あくまで日本古来の美術品の保存が趣旨であるため、所持許可ではなく登録。
一方でその趣旨から明治以降に作られた軍刀は対象にならない。
軍刀のなかには伝来の日本刀を作り直したものもあり、これらは例外になる。
自分が受けた審査会には、少なくとも4人の刀剣専門家がおられ、申請された刀をバラバラにしていた。
亡夫の形見だと軍刀を持ち込んだおばあさんが二人いたが、不幸にもどちらも認められなかった。
そして、これの廃棄については地元の警察に相談してほしいとのお役人の声が聞こえてきた。
軍刀イコール粗悪品との誤解があったなかでの法律制定だったと思われる。
(後編に続く)


2016/02/11/Thu   日本/CM:0/TB:0/

§ 289.矢立(No.1)

矢立1 矢立2 矢立3
矢立4 矢立5 矢立6
矢立7 矢立8 矢立9
最近は矢立(やたて)の蒐集に浮気をしている。
生家に先祖愛用のものが一つあったので以前から馴染みはあったが、昨今その奥の深さを知る機会があり骨董屋や骨董市を徘徊している次第。
「コトバンク」によれば、
硯(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具で、硯の水がこぼれぬようパンヤ(パンヤ科の常緑高木の種子の長い毛)、もぐさ、真綿などに墨水をしみこませたの。墨汁が乾燥すると水を滴らせて使った。
昔、武士が戦場で矢を立てて背に負った箙(えびら)の下の小袖出しに入れておいた硯を「矢立の硯」といったが、その筆記具が携帯に便利なように改良された後も、これも「矢立」と呼び慣わすようになった。
文献には鎌倉時代からあり、形は最初は檜扇(ひおうぎ)の形だったが、江戸時代となって墨壺が丸く大きくなり,腰にさして歩くのに便利な柄杓型とし、腰帯に差して携帯するのに便利なものが一般的となる。元禄年間後、贅沢になるにつれて金銀細工を施したり,陶製のもの、さらに寛政年間後は墨壺を筆筒から分離して印籠風につくりになった。やがてそれがすたれて再び一体型が主流となった。
この頃、職人には物差しに、商人には算盤や秤に、女性には簪(かんざし)に仕込んだ矢立、なかには短銃矢立など、様々な創意工夫のこらされた機能性の高い矢立が生まれた。
さらに幕末には方形を基本とする箱型の懐中矢立も出廻るようになる。箱型矢立の筆は、振出式、捻子継式等短くする工夫をして箱の中に収納されている。このように矢立の形は、扇型、一体型、分離型、箱型を基本とし、これから脇差型、机上型など様々な変型が開花していく。
とくに幕末から明治の初めにかけては、外国人への販売を意識したためか、目先の変った刀、鉄砲、笛太鼓、三味線、千両箱など様々な形が創作された。素材は、銀、真鍮、白銅、鉄など金属が多いが、象牙、鼈甲、瓢箪、茸、藤、竹、陶磁器等多種である。
明治になり、万年筆が輸入されると矢立も次第に姿を消していった。

2013/09/17/Tue   矢立/CM:2/TB:0/

§ 288.明治の竜五十銭銀貨と贋作

竜五十銭銀貨 
更新間隔が空いてしまい申し訳ありません。なんとか無事に暮らしております。
更新は不定期ですのでこれに懲りずに忘れたころ覗いていただきますように。

今回は明治の竜五十銭銀貨とその贋作について。
本物は明治13年以前であれば発行枚数が少なく特年扱いの値がつく。品位は銀800/銅200、量目13.48g。
写真の右がその贋作で、重さはほぼ同じに調整されている。
近くの古本屋の店主が、ご自分の収集品の処分の意味で、レジカウンターの隅に小さな箱を置き、天保銭や切手のなかに埋もれていた一枚。売るほうも買うほうも、これが贋作であることを承知していたので、それに見合った価格。基本的には、贋作はもう購入する考えはなかったが、なかなかの出来栄えに感心して求めてしまった。

高度な型取りや鋳造技術があれば硬貨の贋作はできてしまうが、採算を考えた場合にどうしても同じものを使えないのが素材の金属。普通、銀貨の代用には、一般的に洋銀(正しくは洋白)と呼ばれる銀白色の合金が重宝がられる。
この洋銀、名前に銀があるため世間では誤解を起こすが実際には、銅(50-70%)、ニッケル(5-30%)、亜鉛(10-30%)を混ぜて作られる。金属の特徴としては優秀で、Wikiによれば、「柔軟性、屈曲加工性、及び耐食性に富み、装身具や電気抵抗線、バネ材料、楽器(主にフルート)の材料として用いられる。また、硬貨の材料として用いられる場合もある。日本における現行の五百円硬貨は、銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%の合金製であるが、貨幣の世界ではこの合金をニッケル黄銅と称し、造幣局もこれを材質の正式名称としている。」とのこと。
洋銀という名称は、幕末から明治初期にかけての日本、および近世の中国に流入した外国製の銀貨のことに使われる場合もある。

過日、フリマーケットに雑貨を出していた中国人のおばさんが同じような年齢の日本人のおばさんに「このスプーンは銀だからまけられないよ」と言っていた。横から手を出してスプーンの柄を見ると「洋銀」という文字の刻印が入っており、箱には○○会社創業50周年記念とあった。得意先や社員に配ったものであろうが、洋銀と刻印したことは一応正直なと見るべきだろうが、多少意図的なものも感じてしまった。お二人に説明しようかとも思ったが、既に別な品物の話に移っていたため、おせっかいがすぎるかなと思い、遠慮した。

最近のなるほどと感じた記事は、6月6日の日経新聞の春秋。
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上場企業の課長さんたちが、いま悩んでいることは何だろう。産業能率大学の調査結果が今月まとまった。3位は「上司と考えや意見が合わない」。2位は「業務が多すぎ余裕がない」。中間管理職ならではの苦労だ。さて1位は何か。聞けばうなずく方も多かろう。
▼答えは「部下がなかなか育たない」で、4割強の回答者が悩む。2年前は3割弱だった。将来の希望では、経営者や役員を目指す向きは減り、部下のいないプレーヤーに戻りたいといった答えが増えたそうだ。調査対象の大半は男性。中心は40代。もはや若くはないが、まだ働き盛り。そんな男性たちがどこか元気がない。
▼今週土曜日はアイドルグループ「AKB48」250人近くの「総選挙」だ。要はファンの人気投票というお祭りなのだが、トップ交代は、地方組の躍進は、左遷組の踏ん張りは、と酒場で課長さん世代もかまびすしい。初期のメンバーでリーダー格の22歳、高橋みなみさんが集団をまとめる苦労をNHKで語っていた。
▼問題のある若手がいれば、対象者が傷つかぬよう全員を叱る。自分が率先して動く。そんな工夫を重ねているそうだ。「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」(山本五十六)は、いつの世も同じ。真っすぐ「上」を目指す少女たちに、悩めるニッポンの男たちが夢を託している構図か。
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2013/06/26/Wed   日本/CM:5/TB:0/

§ 287.文久永寶

文久永寶 
画像の上3枚は真書体の「文久永寶」。
下左は草書体の「文久永寶」。下右は草書体の「文久永宝」。
これら江戸期最後の穴銭は5年後に明治維新を迎え、その数年後に流通禁止になったためか、磨耗の少ないものが多く残っている。
これまで江戸時代の銭は分類種類の多さに閉口していたが、最近、手ごろな値段での入手ルートを見つけたこともあり、ひたすら江戸銭の収集に励んでいる。

以下、日本貨幣商協同組合発行の「日本の貨幣-収集の手引き-」より
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 文久3年(1863)2月、幕府は4文通用の銅銭「文久永寶」及び「文久永宝」を発行しました。金座は天保銭の製造を中止し、銀座も精鉄四文銭の製造を中止して、両銭座で四文銭の製造に当たりました。
 四文銭は3年前から鉄銭に切り替えられています。なぜ再び銅銭に切り替えたのか、また、なぜ、寛永通寶ではいけなかったのか。さまざまな疑問が生まれます。この間の事情を伝える金座の資料が知られています。
 この資料によると、安政6年から文久2年10月までに回収した銅小銭は211万貫文に達しました。しかし、この間に吹立てた鉄銭は52万貫文余でした。回収高の25%余しか吹立てられなかったわけです。差額は天保通寶で引き替えたため市中には百文銭が増え小銭が払底しました。加えて文久3年に将軍の上洛をひかえていたので、鉄小銭と鉄四文銭の鋳造が急務でした。しかし、原料の銑鉄が払底して買入れがはかどらず、めどがたたなかったようです。
 そこで、目をつけたのが回収した銅小銭でした。明和以来の真鍮四文銭の目方は1匁4分ですが、目方が9分の銅四文銭に仕立てれば、わずかながら利益が出るめどが立ちました。
 小銭、四文銭、百文銭が額面通りに流通しにくい状況下で、軽量な寛永四文銭を吹立てることは無理でした。(中略)
「文久永寶」の文面は能筆の3閣老が執筆しました。真文は若年寄の小笠原長道(銀座)、草文は老中の板倉勝静(金座)、草文略宝は政事総裁の松平慶永(銀座)です。(以下略)
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2013/03/25/Mon   日本/CM:0/TB:0/

§ 286.昭武通寶篆書と香港A型

昭武通寶篆書 
呉三桂が昭武元年(=康熙17年=1678)に始鋳した昭武通寶の篆書版。
10.68g 34.5mm

統一明朝が滅んだ1644年から三藩の乱が完全に制圧された1683年まで、約40年の間に12種類の三藩銭(含む南明銭)が発行され、今回の昭武通寶は9番目。残り2種類でやっと清朝に入る。(§210の冒頭文より)

中国在中の「東南アジア美術館」館長に現地で購入してもらい、彼がBKKで落ち合ったnazonazo氏が日本に持ち帰ってくれた。お二人ともありがとうございました。
最近知り合った穴銭専門家のH翁に見てもらったところ、「昭武篆書の壱分版は日本でも貴重品の類。いくらで譲る?」と。「売却は考えていない。いずれ先が見えたら」と応えたら「先にワシが居なくなってる」
最近この手の会話が多くなってきた。

今週は月曜から風邪気味だったが昨日から熱が出始めたため近所の病院へ行ったところ、取り敢えず検査しておきましょうと鼻の奥に棒状の検査紙を入れられた。話には聞いていたがこれほど痛みを伴う検査とは思っていなかった。帰宅後、鼻血状態になったほど。しかして結果は「香港A型のインフルエンザ」。長時間作用型ノイラミニダーゼ阻害剤とかいう「イナビル吸入粉末剤」を処方された。
「明日会社に行けますか?」
「なにアホなことを。インフルエンザ対応マニュアルを会社が作っているはず。普通は熱が下がっても3日は無理」と。


2013/01/25/Fri   中国/CM:7/TB:0/

§ 285.大越の天興通寶

天興通寶 
ベトナム(大越)の黎朝(れいちょう)、天興年間に発行された天興通寶。
先月の日野市で開催された「高幡不動ござれ市」にて入手。

以下Wikiより。
黎朝(れいちょう、1428-1527、1532-1789)は、黎利(レ・ロイ)によって建てられたベトナムの王朝である。
ベトナム史において「黎朝」が2度存在したため、10世紀に黎桓の建てた王朝を前黎朝とし、こちらを後黎朝と呼んで区別することがある。また、莫氏の簒奪による一時断絶を境に前期と後期に分ける。
15世紀初頭、明はベトナムを支配下に置いていたが、これに対し、清化地方丘陵部の小首長黎利(ムオン族との説もある)が挙兵した。長期のゲリラ戦を経て明の勢力を国外へ放逐し、1428年に現在のハノイで皇帝に即位。国号を「大越」とした。
黎利は皇族を冷遇して皇帝独裁体制を築こうとした。しかし彼の死後、政権の中枢は黎利とともに対明戦に従事した開国功臣(ほとんどが清化出身)によって占められた。開国功臣は歴代皇帝や彼ら相互に婚姻関係を結び、地方に多くの領地を有する軍事貴族として政権を主導した。前期黎朝の歴史は開国功臣(とその子孫)間の権力闘争が帝位継承争いと結びつく形で推移した。内政面では国内を五道に分け、その下を府県社に分割し地方行政制度を整備すると共に、国子監などの教育面の充実とそれに伴う官吏養成制度を定め、土地台帳や戸籍を整備し公田分配の制度を定めるなど、建国初期の諸政策を実行している。

後黎朝の年号は次のとおり。
1.順天 1428年 - 1433年
2.紹平 1434年 - 1439年
3.大宝 1440年 - 1442年
4.大和 1443年 - 1453年
5.延寧 1454年 - 1459年
6.天興 1459年 - 1460年
7.光順 1460年 - 1469年
8.洪徳 1470年 - 1497年
9.景統 1498年 - 1504年
10.泰貞 1504年
11.端慶 1505年 - 1509年
12.洪順 1509年 - 1516年
13.光紹 1516年 - 1522年
14.統元 1522年 - 1527年


2012/11/25/Sun   ベトナム/CM:0/TB:0/

§ 284.清の天命通寶と反日デモ

天命通寶満字 
今回の反日デモについて、なるほどと思われる新聞記事があったので記録しておきたい。
2012年9月19日の毎日新聞「余録」から。
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反日デモの暴徒化で日系スーパーなどが破壊された中国山東省での1世紀以上前の話である。キリスト教などに反発する農民らが作る義和団の排外暴動が掲げたスローガンは「復明滅洋」だった▲滅洋は欧州や日本の排斥を意味するが、復明は明朝復活という当時の清朝への反逆を示す言葉だ。時の山東巡撫(じゅんぶ)、毓賢(いくけん)は義和団を弾圧した役人を更迭して民衆の排外暴動を黙認する。一方で反清運動は容赦なく抑圧するよう命じ、反体制運動を排外熱に封じ込めた▲スローガンは「扶清(清を扶(たす)ける)滅洋」に変わったが、結局義和団は清に裏切られる。そして中国の権力者が民衆の排洋暴動を黙認し、政治利用する方式は後世に受け継がれた。「毓賢方式」とは中国文学者の加藤徹さんが「西太后」(中公新書)で用いた言葉だ▲時は流れ、半植民地化に苦しんだ昔の中国ではなく、世界第2の経済大国となった現代中国の話だ。反日暴動での日本企業の損害について「責任は日本が負うべきだ」と話すのはデモ参加者ではない。中国外務省の報道官というから、いつの時代のことかと耳を疑う▲流石に国民には合法的行動が呼びかけられ、暴徒の摘発も報じられた。だがアクセルとブレーキの案配が難しい毓賢である。聞けばデモでは毛沢東の肖像が掲げられ、失脚した簿熙来氏への支持の声もあるという。国内の権力闘争の行方も左右するその案配だ▲国民の排外暴動は世界秩序に責任ある大国の名誉に泥を塗る所業である。国民の不満を愛国主義という可燃性ガスに変えて制御しようというむちゃな「方式」はもう歴史の倉庫に収めてもらいたい。
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写真は、清朝の基礎を作ったヌルハチが発行した天命通寶の満字版で鋳造期間は1616-1626。
上の記事は、満州女直族すなわち清王朝による支配を嫌った漢民族による「復明」。天命通寶は多少の関係があるかと。
中国に駐在している友人に頼んで入手してもらい、彼が国慶節休暇で一時帰国した際に受け取った。深謝深謝。
右端は一緒に購入してもらったもので、清朝の同治3年(1864年)、新疆の庫車で蜂起したアッディーンが発行した庫車回文銭。


2012/10/20/Sat   中国/CM:0/TB:0/

§ 283.師匠と穴の細道

穴の細道表紙 穴の細道 著者 穴の細道 半両 穴の細道 最終
時に人間関係の分析は面白い。
親子関係では、親は子供からの信頼を損なわないために、話すことを一貫させるよう努力する。
師弟関係では、師は頻繁に前言をひるがえす。それで弟子は困ることも多いが、そうやって悩み考えることでいずれ師を超えることを師は知っている。
会社の喫煙所で、小生のボヤキを聞いてくれた某氏が「最近読んだ本に書かれていた話」として教えてくれた。


写真は、日中の穴銭収集家にとっての必読書であるといわれている「穴の細道」。
いまごろかといわれそうだが、先々週有楽町の交通会館でおこなわれていた即売会で入手した。
著者は呑泉 安達岸生、発行年昭和46年、価格2000円。
こういう天才的な方がいたおかげで、特定の分野が突然進歩するという見本のような著作でした。
これまでの定説や見向きもされなかった貨幣に対し、真剣に取り組み筋の通った新しい解説を試みているのがよく分かります。
惜しいことに、彼はこれを上梓したあと急逝している。


2012/09/25/Tue   中国/CM:0/TB:0/

§ 282.Guerneseyの銅貨と壊れた本能

Guernesey銅貨
久しぶりに19世紀欧州の貨幣。
フランスのノルマンディの西にあるGuerneseyの8Doublesという銅貨。 英国の1Pennyに相当。

Guerneseyに関しては以下Wikipediaから。(一部抜粋)

ガーンジー (Bailiwick of Guernesey) はイギリス海峡のチャンネル諸島に位置するイギリス王室属領(英語:Crown dependencies)である。首都はセント・ピーター・ポート。
ガーンジーは、ガーンジー島のほか、オルダニー島、サーク島、ハーム島、ブレッシュ島、ジェソー島などの小島を含む。

イギリス王室属領であり、イギリス女王をその君主としているが、連合王国には含まれない。そのため、内政に関してイギリス議会の支配を受けず、独自の議会と政府を持ち、海外領土や植民地と異なり高度の自治権を有している。 欧州連合にも加盟していない。したがって、イギリスの法律や税制、欧州連合の共通政策は適用されない。 ただし、外交及び国防に関してはイギリス政府に委任している。したがって、主権国家ではない。

Bailiwickは代官の管轄区という意味であるが、日本語では定訳はなく、単にガーンジーと呼んだり、ガーンジー管区などと訳されることもある。代表的な島の名前であるガーンジー島の名で呼ばれることもある。

紀元前6500年頃まで、ガーンジー島は現在のフランス本土と陸続きであった。先住民は紀元前5000年頃に農民に追い払われた狩猟民である。933年、ノルマンディー公ギヨーム(長剣公)はチャンネル諸島を含む領地をブルターニュ公国から奪った。1066年、ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム征服王)はイングランドを征服し、イングランド王ウィリアム1世として 戴冠した。それ以来、ガーンジー島は歴代イギリス王室の直轄地となっている。


今回は以前から気になっていた東洋英和女学院大学学長 村上陽一郎氏の「壊れた本能」という記事。 
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 ヒトは哺乳類の頂点にいるというのが常識である。頂点にいるという表現が適切かどうか、疑問もあるが、とにかく哺乳類の一種であることは間違いない。遺伝子レベルで言えば、彼らとの差は決して大きくない。しかし、表面に現れた違いは著しい。ここでは、そのなかで、普通あまり問題にならないところを考えてみたい。
 同種間殺戮。同じ種のなかでの仲間殺しである。無論他の哺乳類にも仲間殺しは皆無ではないが、一挙に数十万人の仲間を組織的に殺すようなものはいない。他種を狩る場合も同じだ。空腹でない限り、他の哺乳類は他種を殺さない。人間は、バッファローのように、一旦はほとんど絶滅させるほどに、楽しみのためだけに殺す。性行為でも、食べることでも、他の哺乳類なら、本能によって制限されている行為を、人間はひたすら欲望の赴くまま、ただ楽しみのために際限なく追求する。あたかも本能が壊れているかのように。よく、抑制なく行動する人を、「獣のような」と形容することがあるが、それでは獣に礼を失するかもしれない。
 際限無く、と書いたが、自らのなかには自然に備わった際限がないために、行為の限界を自分で造り出さざるを得なかったのでもある。例えば、宗教の中の倫理は、そうした壊れた本能を補う抑制機能のようにも見える。
 戦後の私たちは、自分の欲するところに忠実であるように、社会が用意した様々な欲望の抑制機構に従うことを否定するように、教えられてきた。
 しかし、人間は、壊れた本能に代わるべきものの制御なしには、人間でいられない。そのことに気付くべきではないか。
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2010年11月11日日経新聞 明日への話題から


2012/08/19/Sun   Guernesey/CM:3/TB:0/

§ 281.清の宣統通寶

宣統通寶表 宣統通寶裏
3宣統通寶新疆 
清の他 
Blogの掲載記事と在庫品を確認していたら、清朝最後の宣統通寶を忘れていることに気付きました。
一部重複しますが他3枚もついでに。

清朝十二代皇帝溥儀(宣統帝)の宣統年間に造られた宣統通寶。
一番上写真の左列3枚は広東省製。3列目上は近年作か。
2番目写真は新疆の銅貨で発行枚数少ないらしく市場相場は高いが、残念ながら摩耗が激しい。

宣統帝に関すてWkipediaから一部抜粋。
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愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、繁体字: 愛新覺羅 溥儀、カタカナ転写: アイシンヂュエルオ プーユィー、愛新覚羅の満洲語発音はアイシンギョロ。

中華世界のラストエンペラーとして知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝、満州語でゲフンゲ・ヨソ・ハンと称され た。清朝滅亡後に大日本帝国政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝(1934年 - 1945年)と称した。満洲国の崩壊とともに退位し、ソ連軍の捕虜となった。撫順戦犯管理所からの釈放後は北京植物園に勤務、晩年には中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王載と、光緒帝の従兄弟で、西太后の腹心栄禄の娘である瓜爾佳氏・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。なお、祖父は愛新覚羅奕、曽祖父は道光帝となる。

1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後溥儀は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。
西太后は溥儀を後継者とするとともに、溥儀の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。
なお、光緒帝の崩御に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺した」とする説がある一方で、「戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺した」という説もあり、溥儀は自伝『わが半生』で「袁世凱による殺害」という見方を示している。しかし、いずれも証拠がなく、誰が光緒帝を暗殺したかは不明である。

1906年:醇親王載?の子として北京に生まれる
1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
1912年:辛亥革命により退位
1917年:張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
1919年:イギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招聘
1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚
1924年:クーデターにより紫禁城から退去。ジョンストンが帝師を退任
1925年:イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否され、天津日本租界内張園に移転
1931年:文繍と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問
1937年:譚玉齢を側室とする
1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
1942年:側室の譚玉齢が死去
1943年:李玉琴を側室とする
1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後日本への亡命途中に、侵略してきたソ連軍の捕虜になる
1946年:極東国際軍事裁判にソ連の証人として出廷させられる、正妻の婉容死去
1950年:中華人民共和国に身柄を移され撫順戦犯管理所に収容される
1959年:模範囚として釈放され、その後北京植物園を経て政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員会に勤務
1962年:李淑賢と再婚
1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
1967年:北京で死去


2012/07/09/Mon   中国/CM:3/TB:0/

§ 280.仙台通寶と採用面接

仙台通寶 
どなたからもご指摘を受けた訳ではありませんが、流石に、現役中の話題は自分の規範ルールぎりぎりかと判断し、前半部分を削除します。
コメントいただいた方々、申し訳ありません。 あとで埋め合わせします。

写真は、先月家族で栃木県那須に行った際に購入した仙台通寶。
市場相場を知っているつもりだったが、サイズが3種類もあることを知らず、高い買い物をしてしまった。
初日に1枚、翌日同じ店でもう1枚を買ったが、その時に千円の値札が付いたストラップをおまけに呉れた時に、気付くべきだった。
直径22.5mm、品位:鉄、量目3.06g。

以下、Wikipediaより転載。
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仙台通宝(せんだいつうほう)は、江戸時代に仙台藩が製造していた地方貨幣。銭文は「仙臺通寳」である。
形状は、円形に四角形の孔が穿けられた寛永通寳などとは異なり、角を丸めた四角形に四角形の孔が穿けられている(そのため、「撫角銭」などという呼称もあった)。通用銭の材質は青銅ではなく、宮城県で豊富に産出していた鉄でできているが、鋳型原型である母銭は銅製である。初期鋳造のものは大型であり、次第に小型化したため、収集界では「大様」(幅23mm以上)、「中様」(22mm程度)、「小様」(20mm程度)と分類している。
元々仙台藩は、幕府の許可の下で寛永14年(1637年)および享保13年(1728年)に寛永通寳銅銭を、元文4年(1739年)および明和5年(1768年)からは石巻において鉄銭を鋳造していた実績があった。その後、天明の大飢饉の際に藩財政が逼迫したことをきっかけに、天明4年(1784年)に5年間の期限という条件で幕府の許可を得て、独自の地方貨である仙台通寳の鋳造に至った。明和年間に石巻で寛永通寳鉄銭が多量に鋳造された時、全国的な銭相場下落を引き起こした経験から寛永通寳と区別するため銭文を「仙臺通寳」とし、撫角の形状として領内通用に限ったものとされる。
材質が悪いことから嫌われ、藩内でインフレーションを招く一因となったとされるが、経済的な裏付けが乏しかった藩札と異なり、少なからず諸国へ流通した形跡(盛岡藩内で偽造が行われた、広島藩内の遺跡から出土したなど)も見られる。
鋳造量は308,000貫文(308,000,000枚)にも及び、また通用範囲が領内に限られていたことから、寛永通寳に対して価格が乖離し、発行当時、一両につき10貫800文の相場であったものが、後に21貫文まで下落し、天明7年(1787年)7月に5ヵ年の期限を待たずに鋳造停止となった。仙台通寳の相場が寛永通寳と比較して低下したことからこれを買い集め、寛永通寳の銭緡に交えて通用させ不正に利益を得ようとする者が現れ、仙台藩領を超えて江戸まで流入したため、文化3年(1806年)に幕府はこれを厳しく取り締まる触書を出すに至った。
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2012/06/17/Sun   日本/CM:3/TB:0/

§ 279.昭和19年発行貨幣と記念写真

今回の連休中に実家の荷物整理を行なった。
父は数年前に亡くなり、85歳の母は体は元気だが多少痴呆ぎみのため姉が引取ってくれている。
整理した荷物のなかに下の写真があった。
写真の裏には「昭和19年9月3日撮影 同窓会記念」とあり、それぞれの名前が書かれていた。 母は昭和2年生まれなので撮影時は17歳ということになり、記載の名前から小学校時代の同窓会と思われる。 また翌20年にはこのうちの男子何人かに最後の赤紙が届いたと母から聞いたことがある。
同窓会記念写真 
手持ちの貨幣のなかで昭和19年発行のものを並べてみた。
近年では昭和20年に続いて貨幣の発行種類が少ない年かと。
またアルミが貴重となり錫(すず)が主素材となっている。
昭和19年 表 昭和19年 裏
上段左、穴アキ10銭錫貨、直径19mm、品位:錫930/亜鉛70、量目2.40g。
下段左、穴アキ5銭錫貨、 直径17mm、品位:錫930/亜鉛70、量目1.95g。
この穴アキ銭は昭和19年のみの発行。

中央、1銭錫貨、直径15mm、品位:錫500/亜鉛500、量目1.30g
この1銭は翌20年にも発行されるが枚数少ないため現市場価格は19年の3~5倍とか。

上段右は参考までに昭和15年から18年まで発行された5銭アルミ貨。
直径19mm、品位:アルミ1,000だが時代を反映して量目が年々軽くなっていく。
15年と16年途中まで1.20g、16年途中から17年まで1.00g、18年は0.80g。
写真は16年途中から発行された1.00gのもので、発行枚数が極端に少ない。
17年の1.00gのものに対して現在の市場価格は20倍~30倍。

下段右も参考までに終戦直後から翌21年に発行された鳩5銭錫貨。
直径17mm、品位:錫930/亜鉛70、量目2.00g。
表には平和の象徴の鳩が入り、裏は大日本から日本政府に変わっている。


2012/05/05/Sat   日本/CM:0/TB:0/

§ 278.タロウ君は天国へ

01 19980814 02 20000101. 03 20010613
04 20011206 05 20020209 06 20020417
07 20020419 08 20020420 09 20041219 
10 20061225 11 20080609 12 20110210
3月9日23時10分、タロウ君は天国へ旅立ちました。
13歳と10カ月。

息子が通い始めた中学の校長先生が、全父兄集めて言いました。
「思春期を迎えたこども達のために犬を飼いなさい」と。
それに気をよくして、さっそく「横浜動物里親の会」に申し込みました。

1歳を過ぎた頃、散歩の途中で、年配者から声を掛けられました。
「いい紀州犬だね」
「いいえ雑種です」
「これは紀州犬だ。なぜなら私は犬の専門書を書いている」
「でも両親は雑種です」

気品があっていい犬でした。
家族もどれだけあなたにいやされたことか。
さようなら、タロウ君。。。。


2012/03/13/Tue   未分類/CM:2/TB:0/

§ 277.尋常小学の修身教科書と一円銀貨

 修身表紙 
修身2課 修身18課 修身裏見開き
 修身裏
一円銀貨表 明治25年裏 明治25年裏と明治26年裏比較 
表の見開きには次の記載がある。
明治廿八年三月四日 文部省檢定濟  實驗 日本修身書 巻一 尋常小學生徒用 

裏の見開きにはこう書いてある。
定價 自巻一至巻六 金六銭六厘  賣捌所 各府縣特約販賣所

裏には達筆な毛筆で「笠間茂兵衛」と所有者の名前がある。
たぶん父親の手によるものか。

先月15日世田谷のボロ市で入手した。
これ以上物を増やすまいと思っていたが、この種の教科書を2冊だけ買ってしまった。
50冊ほどが乱雑に積まれており、店の親父の言い値があまりに破格すぎた。

話変わって、日本に戻ってから隔週で大井競馬場へ通った。馬券目的ではなく不用品処分のためのフリーマーケット出店側である。
隣で店を出しているセミプロのおじさんやおばさんによると、最近は「整理屋」なる業者の出店が増え、困っているとのこと。
大型のトラックで来て、大きなビニールシートを広げ、その上に乱暴にありとあらゆる日用品や衣類を放り投げる。
最初は一つ100円や300円で売っているが、昼過ぎになると大きなビニール袋を一枚100円で買わせ、大声で「入るだけ持って行け」と、がなりたてる。
革ジャンやレコード盤を無理やり詰め込んでいる若者が何人かいた。

一人暮らしの老人が亡くなったり老人ホームへ入った後、別居していた長男長女が最低限必要な物だけ持ち出し、残りすべての処分をこの「整理屋」にお願いする。それなりの手数料を支払って。
昨日の真夜中に郵便ポストを開ける音がしたので寒空のなか外に出てあけてみると、偶然にもこの整理屋と思われるビラが1枚入っていた。
「遺品整理」「秘密厳守」「クロス張替え」「解体工事」などの文言が並んでいる。
所有者だった老人は、こんな所で自分の愛用品が売られるのを予想できただろうか。
世田谷のボロ市で売られていた修身の教科書も、乱雑な扱い方や販売価格からこの手のルートからと思われる。

明治の一銭や一厘銅貨を並べられればよかったのだが、なかなか見つけられず、手元にあった一円銀貨を撮影した。

日本貨幣カタログでの名称は、新1円小型銀貨。38.1mm、銀900/銅100、26.96g
写真の明治25年は下部火炎にひれが4本の前期と3本の後期タイプに分けられている。
市場価格は前期タイプが後期の6倍以上する。写真は偶然にも4本ひれの前期タイプで、数年前にシンガポールで入手。
日本貨幣カタログによる解説は以下の通り。
1円銀貨は従来貿易専用銀貨として製造発行された。明治11年からは国内でも流通できるようになった。しかし、明治30年、日本政府は金本位制を公布する貨幣法の制定に際し、1円銀貨の通用停止と引換禁止を決めた。ところが、日清戦争以来台湾や朝鮮では、1円銀貨が盛んに流通していて、すぐに流通禁止とすることができず、当分の間、丸銀の極印を打って、外地でのみ流通を認めることとした。(以下略)


2012/02/14/Tue   日本/CM:10/TB:0/
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